LOGIN「恋人って言ったら、その次が勝手についてきそうで嫌。毎日連絡するとか、泊まるとか」『まだ何もしてないだろ』「だから聞いてる。景都は平気?」 短い間があった。『平気ではない。できれば、今すぐそう言いたい』 電話の向こうで、短く息を吐く音がした。『でも、言ったら君が――』「そこで止めて。今、私の返事まで考えたでしょう」 電話の向こうで景都が黙った。『……考えた』 私はタオルを外し、髪を指でほぐした。「誰かに聞かれるたび、同じ説明をするのは面倒だね」 景都は、森下には「定期的に会っている」までで止めればよかったと言う。「週一とは言ってないよね」『例外の週もあるから言ってない』 濡れたタオルを籠へ入れながら、私は笑った。「そういう正確さを足すから長くなるの」 言葉を決める話は、顔を見ずに続けるほど会議に近づいていく。「今度、会って話す?」「何を」「……分からない。だから会う」 濡れた髪が首筋へ貼りつき、指で払った。電話の向こうで、景都が短く息を吐く。「じゃあ、会うことだけ」 数秒のあと、土曜は空いているかと聞かれた。 予定表を見る前に、「空いてる」と答えていた。『何も決めてない。会えるかだけ聞きたかった』 濡れた髪をタオルで包みながら、私は小さく笑った。「じゃあ、今はそれでいいよ」 電話を切る前、景都が一度「真帆」と呼んだ。「何」『いや』 今度は私が笑う。 土曜の予定も、店もまだ決まっていない。 それでも、会うことだけは二人とも迷わなかった。 名前は決まらない。 次に会う日だけは、すぐ決まった。 土曜より先に、景都と仕事で会った。 LATTICE SHIELDがmellow noteの新しい物流拠点の危機管理支援に入り、合同会議が設定されたからだ。 会議室へ入ると、景都はすでに
十五分後には、私たちは金具の角度の話しかしていなかった。 十二枚のうち三枚を落とし、残った写真の文字位置を二ミリ下げる。灯が「こっちは金具が安っぽく見える」と言い、私は拡大して反射の線を確認した。「これ、照明じゃなくて傷じゃない?」「サンプル見てくる」 灯が立つ。恋愛の答えを求めていた人が、次の瞬間には倉庫へ走っていく。 昼に見た景都の顔も、キスした夜も、画面の外へ押し出される。 午後三時、灯がゼリー飲料を一本、私の机へ置いた。「昼、サンドイッチを半分残したでしょう。それを食べたとは言わないから」「そこまで見てたの」「恋愛より、倒れない方が大事」 恋愛より食事を気にされる方が、今はありがたかった。 終業前、灯が倉庫から戻ってきて、傷ではなかったと報告した。「じゃあ三番で」「了解」 画面を保存してから、私はようやくスマートフォンを開き、『灯にバレた』と送った。 景都からは一分もしないうちに返ってきた。『何て説明した』 私は入力欄に指を置いた。「付き合ってはいないけれど会っている」とだけ打つと、さっき灯へ言った時よりひどく頼りない文章に見える。全部消して、『うまく説明できなかった。たぶん、そっちも同じだと思う』と送った。 今度は、既読だけがついた。景都もまた、答えを短くできずにいるのかもしれない。 返信を待つ間に、灯が帰り支度をしながらこちらを見る。 帰り支度をしていた灯が、私のスマートフォンを顎で示した。「深見さんから返事待ち?」 何で分かるのかと返すと、さっきから画面を閉じるふりだけしていると言う。「そんな顔、ないから」 灯はエレベーターのボタンを押した。「ある。説明できない二人の顔」 灯は笑ってエレベーターへ向かった。私は画面へ戻る。景都の返事は、いつもより遅かった。画面を閉じる理由は、それでも見つからなかった。 景都から電話が来たのは、帰宅してシャワーを浴びたあとだった。『宮坂さんには、何て言われた』「私たち、面倒だって。否定しづらいけ
名前はない。キスはする。他の人とは会わない。昼食の店だけは決まっている。 店へ入ると、灯は三人席の奥へ座り、私を自分の隣へ呼んだ。景都は向かい側。完全に事情聴取の配置だった。「昼休み二十五分だから、今日は聞かないでおく」 灯はメニューを開きながら言う。「助かる」 灯はメニューを開いたまま、午後は逃げないよう念を押した。「仕事あるんだけど」「終わったらでいい」 取り調べは保留になっただけらしい。 景都が水を飲む。灯はその手元を一度見てから、急にメニューへ戻った。 注文したあと、三人とも仕事の話をした。新しい物流拠点、販促写真、LATTICEの監査日程。名前のない関係が目の前にあるのに、昼休みは普通に終わる。 店を出る時、灯が私の袖だけ引いた。「あとでね。三十秒じゃ終わらないから」 逃げられないらしい。社会へ戻った途端、私たちの間では通じていた曖昧さが、他人には説明できなくなった。 灯に捕まったのは、午後の打ち合わせへ戻る前だった。 エレベーターの扉が閉まると、灯が開閉ボタンから手を離して私を見る。「で、昨日のあれは何だったの」「午後の写真選び、始まるよ。三十秒じゃ終わらない」「終わらなくていいから、入口だけ教えて。付き合ってるの?」 五階に着いた。私は先に降りたが、灯も開きかけた扉を肩で抜け、当然のようについてくる。「付き合ってはいない。でも会ってるし、デートもしてる」「それを普通は付き合ってるって言うんじゃないの」「普通の話ならね。私たちは……」 続けようとして、言葉が止まった。元夫婦で、キスをして、互いにほかの人とは会わない。それでも、まだ恋人とは呼んでいない。その順番を三十秒で説明すると、私たち自身まで番組の選択札へ戻される気がした。 灯は私の顔を見てから、声を少し落とす。「深見さんも真帆も、ほかの人を探す気はないんだよね」「うん。そこは決めた」 灯は私の顔を一度眺め、モニターへ目を戻した。「じゃ
『これ、君が嫌いなやつだろ』 甘いクリームが山ほど乗った写真に、『よく覚えてるね』と返す。『前に一口でやめた』 結婚中の話だった。 覚えていることと、今の私を知っていることは違う。だから週末、私はその店へ景都を連れていき、甘くないレモンケーキを頼んだ。 景都はレモンケーキを見て、前はケーキも嫌いだっただろうと言った。「今は、これなら食べる」 彼の知らない五年を責めるつもりはない。「今知ったじゃん」と皿を彼の方へ寄せた。 景都は一口欲しいと言った。私はフォークで端を切らず、皿ごと寄せる。「自分で取って」「そのくらい自分で取るよ」「じゃあ聞かないでよ」 景都は小さく眉を寄せ、自分のフォークで一口だけ取った。 その帰り、駅の人が少ない場所で短くキスをした。離れた直後、景都の手が腰へ触れ、身体が反射的に強張った。彼の手がすぐ離れる。「ごめん」「違う。嫌じゃない。びっくりしただけ」言い訳みたいに早口になった。景都は何も言わず、半歩だけ距離を戻した。◇ 月曜の昼、会社近くで景都と待ち合わせた。取引先へ渡すサンプルをLATTICEの担当者に預けるだけの予定だったが、時間が合ったので一緒に昼食を取ることにした。 店の前で灯と鉢合わせた。「え」 灯の目が私から景都へ動く。「深見さん、お疲れさまです」「宮坂さん」 仕事の挨拶だけなら何もおかしくない。 問題は、景都が私の手から自然に紙袋を取ったことだった。 景都は私の手から紙袋を取った。持ち手が細く、指へ食い込んでいたからだという。「軽いし、自分の商品なんだから私が持つよ」 軽さではなく、痛そうだったから、と返される。私は持ち手へ手を伸ばした。「じゃあ返して。持ってほしくなったら、私から言うよ」 景都は名残惜しそうに、素直に返した。 灯が黙る。 その沈黙が不自然すぎて、私の方が居心地悪くなる。「真帆、ちょっと待って」「何? 昼休み、短いんだけど」
「俺は付き合いたい。君と会って帰るたび、また次もって思ってる」 迷いのない返事だった。それでも、私に同じ答えを求める言葉は続かなかった。 嫌ではない。むしろ嬉しい。けれど『恋人』と口にすると、次は泊まるのか、身体を重ねたら復縁なのか、家族や会社へ何と言うのかまで一気に浮かんだ。昔の夫婦へ戻る道を、また順番どおり歩かされるようで怖かった。「私、まだ『恋人』って言うの、ちょっと怖い」「何が」「言ったら、その次まで一気に戻りそうで」 信号の電子音が鳴り始める。人が動く。私たちは一拍遅れて歩き出した。「でも、景都が誰かとデートしたり、誰かを探したりするのは嫌」 景都がこちらを見る。「俺も嫌だ」「じゃあ、ほかの人とは会わない?」「俺は最初から会うつもりない」「私も」 景都は間を置いた。「でも、恋人って呼びたい」「今は待って」 景都が息を吐く。「……待つ。でも、嬉しくはない」 駅ビルへ入り、食品売り場の前を通る。景都がコーヒー豆を見て立ち止まり、私は先に数歩進んだ。「それ買うの?」「切れそう」 景都は棚から一袋取り、裏面を確かめる。「前と同じ?」「変えた」「何に?」 景都が選んだのは、知らない銘柄だった。 恋人という名前は決められないのに、こういう知らないことなら今日一つ増やせる。 レジを出たあと、私は自分から景都の手の甲に指を一度触れた。 握らない。 景都も握らない。 袋の焙煎日は昨日だった。古い豆は嫌だという。「前は深煎りだったよね」「最近は朝に飲むから、軽めの方がいい」 私は知らなかった。景都も私の塩パンを知らなかった。五年分を埋めるには、たぶんこういう小さいことの方が多い。 駅へ向かう途中、景都のスマートフォンへ着信が入った。仕事の電話だった。私は二、三歩先を歩く。景都は二分ほどで切り、追いついた。「待たせた」「
二度目はさっきより長かった。景都の呼吸も整っていなかった。離れた唇を追わないよう、顎に力が入っている。その顔を見て、彼が何を止めているのか分かった。私の身体も、同じ続きを知っていた。 夫婦だった頃にも、数えきれないほどキスをしたのに、離れた瞬間、初めてみたいに息の仕方が分からなくなった。 離れた瞬間、白い病室の天井が一瞬だけ浮かんだ。 嬉しいのに、別の記憶が混ざる。 景都の手が私の肩へ向かいかけ、途中で止まった。 景都が名前を呼んだ。「大丈夫。……たぶん、嬉しい方が大きい」 白い病室の記憶を言葉へしようとする気配がしたので、私は袖を掴む。「今は、大丈夫。もう少し、このままでいたい」 景都は何も尋ねず、私が袖を掴んだままでいられるよう、腕を下ろした。 離れた唇がまだ熱かった。私はその熱まで怖がらずにいられた。「水、買おう」「喉乾いた?」「ちょっと」 自動販売機で、景都は水を二本買った。一つを渡され、私はキャップを開ける。一口飲むと、ようやく息が落ち着いた。景都も半分ほど飲み、目が合うと照れたようにボトルへ視線を落とした。 橋の手前で、私は出張の話へ戻る。「楽しかった」「そうか」 景都の声に何か混じった気がしたが、聞かなかった。 三度目のキスはしなかった。欲しくなかったからではない。景都も求めず、私も袖を掴んだまま歩き出した。帰り道が残っている。次に会う理由も残っている。 駅へ向かう途中、乗換案内をめぐって笑った。キスをした直後なのに、話しているのは互いの終電だった。その普通さに助けられる。 ホームへ下りる前に振り返ると、景都はまだそこにいた。互いに手は振らない。階段を下りても、掴んだ袖の感触だけが指に残っていた。 キスをしたからといって、翌朝から何かが分かりやすく変わるわけではなかった。 景都から来たメッセージは、『昨日、帰れた?』だった。『帰れた』『そうか』 ハートも、恋人らしい言葉もない。私も付けなかった。 次